昭和47年1月9日 特別奉修委員       (末永信太郎)



 お芝居にめいぼく先代萩というのがありますね、あの、(から?)先代萩と書いてある。あれはめいぼく、めいぼく先代萩と言うんですが。あの、御殿場の千松が殺されるところがね、あるでしょう。あの政岡が一人になった時に、あの愁嘆場で言う台詞の中に、「死ぬるを忠義と言うことをいつの世からの慣わしぞ」というところがありますね。武士の種に生まれたは幸か因果か、という、まあ、名ね、触りのところです。
 御神前に出たら、そのことを頂くんですけどね。それがどういうようなことかと、私によく分からないですけれども、まあ、皆さんに良くわかって頂きたいと思うのです。先ほど、田中さんがお届けをされますのに、昨日は佐田さんところの、あの、夜が共励会でございまして、野口さんに誘われて、あちらへおかげを頂いた。もう、初めて佐田さんのところにおかげを頂いて、もう、信心の素晴らしい方達の中におるということが、また、いかに素晴らしいことか。
 例えば、あの、熊谷さん辺りの話を頂いておりましたら、もうその、あのご年配で、あの意欲で、ああいうようなことの中からでも、信心をこう吸収しておられ、吸収しようとしておられる精進ぶりというものを聞かせて頂いて、もう本当に有り難かった。もう、帰るまでおかげを頂いて、こうこう、帰りましたらまた実際、こうしておかげを頂いておったという話を今日お届けになったんですけどもね。
 もう、確かにそうです。これは信心のけいこに限らないのですけれども、やはりあの、まあ、偉い先生のところでなからなければ信心が進まないというね。今、偉い先生のところでなかにゃ、良い信心は生まれない。いわゆる、名匠の元に(じゃくそ?)なしと昔から言われるようにですね。また、信心友達でも、やはり少しは自分の手の届かないくらいな、その高度な信心をしておる方達とお付き合いをしたり、交際をするて。そういう意味で、あの、田中さんはおかげを頂かれたわけですね。
 たしかに、まあ、一段も二段も程度の高い方達とお話し合いをさせて頂けたということが、非常に有り難かった。ただね、参りさえすりゃええ、拝みさえすりゃええ、お願いさえすりゃええ、といったようなもんじゃないです、信心とは。私は、その田中さんが椛目に初めてご縁を頂かれた時に、初めてご縁を頂かれた時に、この、外、放棄をこう履いておられるんですよね、高放棄を持って。ところが、放棄がぜんぜん、地について行きよらん。ただ、履きよる格好しとるだけなんです、こうやって。ね。
 きれいにも何もなってない。ある教会で、もう長年おばあちゃんの時代からの御信者ですからねあちらは。ですからもう、こまか時から教会でずうっと連れられて参られておられるし、金光教の信心、もう、それで一端の金光様の信者だとやっぱ思うちゃった。ね。
 しかし、そういう信者がどのくらい金光教の中にあるか分からないですよ。ね。信心とは本当にあの、精進してでも、修行してでも、本当なことが分かろうと、本当な信心が分かろうというものではなくてです、ただ、長年お参りはしよるけども、履きよるごたる形だけであって、これだったら何十年経ったっちゃ同じだと思うですね、きれいにはいっちょんなりよらんでしょう。ね。
 時々参って、お願いの時お願いをして、まあ、おかげを頂て(   )じゃったということでしょうけれどもね。ですから、そのことを申しましたら、何か分からんような風にしておられましたけれども。段々お参りをされるに従って、本当にあん時にお知らせを頂いて、親先生が私の信心を地に付いていない信心と、これじゃ一つも清まりも綺麗にもならないということを頂いて、段々信心のけいこをさせて頂いてからおかげを、まあ、合楽にこうやって御神縁を頂かれるようになって、もう、それこそ目覚しい信心の進展ですよね。これはもう、目覚しいですよ。
 やはり、長い間の一つの信心の基礎、もう狂わないものですね、もう何十年、おばあちゃんの代からしとるのですから、信心は狂わないです、もう決して、おかげを頂くが頂くまいが。そういうものが出けておる上に合楽の信心を頂かれるようになったから、信心が言うなら目覚しい進展を遂げて行くわけですね。
 この正月にお夢を頂いたというお届けを今日しておられましたが、ちょうど今日の御理解をそのままに頂いておられましたですね。そして最後に、幹三郎ちゃんの御守り役ということを頂かれたそうですね。
 だから、もう、貴方がね、あの幹三郎の去年、明日、ああいう大修行を皆さんが一生懸命になられた時になさったあの信心修行というものは、もう田中さん、あなたの一生涯、これはもう、田中さんの信心の信条だと言うてもよい。もう、これを極めて行く以外にはないと言うて、言うたことでしたけれどもね。
 あの時分に、もうそれこそ一生懸命の、いわゆる御祈念、信心修行なさいましたですわね。幹三郎ちゃんの命を助けて頂きたいという、一生懸命。そのかわりに、例えばもう、家でお茶碗を洗っておろうが、ご飯を炊いておろうが、他所に取り入れの加勢に行っておろうが、何をさせて頂いておろうがです、これが幹三郎ちゃんがおかげを頂かれることのための修行だと思うたら、もう何もかもが有り難うして堪えんということを田中さんが当時言われましたですね。これはもう、素晴らしいことなんですよね、これは。
 しかし、それを実感を持って、あの、幹三郎の病気の時に、それに取り組まれたということですね。もう私はね、お互いの信心の一つの信条、これだけはこの人の信条だといったようなものを持たなきゃいけませんね、漠然とした信心じゃいかんです。もう、これ一つ、あなたはもう、自分の信心の構えにされたら、もう素晴らしいことですから。だから、これをいよいよ、いわゆる幹三郎ちゃんのお守り役というような、これを一つ、貴方の信心の信条になさったら良いですねと言うて、まあ、今日も申しましたことですけどね。
 ね、例えば願いを持たない者はありませんし、ね、だから、また信心を分からせて頂くことのための信心修行をさせて頂くに致しましてもです、ね、もう、することなすこと全てが、そのことが成就することのためにということですから、その当時、田中さんが言っておられましたが。
 あの時には何でしたかね、(近所?)に取り入れが遅くなっておられるところに、あの、訪れに行かれましたんですよね。それも行かんでもよかところだけれども、もうとにかく、人が喜びなさることならと言うて、取り入れの手伝いに行ったって。言うなら、他所の手伝いに行った。しかし、それが、んなら、幹三郎ちゃんの病気全快の修行の一端になるならばと思うたら、もう、そのことが嬉しゅうして嬉しゅうしてたまらなかった、と言うておられます。だから、修行とはそんなもんだと思うですね。
 はっきり、そのことが成就することのための修行。例えば、なら、こうやって皆さんが一生懸命、特別奉修をなさる。ね。普通の信心が出けた上に、またなさる。例えば、私の体のことだけではない、教会全体のことを祈られる。ましてや、なら御造営がいよいよ始まる。その御造営が成就のことのために、今年、今度の御造営で一番目立ちますことは、皆さんがお初穂をなさって、御造営成就祈願というお初穂が大変目立って多いことですね。これは、皆さんがそのことに対して祈っておられる証拠です。
 ですから、その祈っておられるということが有り難いですから、それが本当に祈りにならなきゃいけない。ね。御成就のための、これが修行と思うたらお参りも楽になるというなことになったらどうでしょうか、素晴らしいことです。ただ、お初穂をお供えして御成就祈願を願っておるだけじゃなくて、その日常生活にそのように繋がって行かなければ打目ですよ、金光様の御信心は。
 ね、だから、そういう信心が身に付いた時です、例えば、今日は私がこうして、ね、死ぬるを忠義と言うことは、いつの世からの慣わしぞ。もう、死ぬるということ、例えば武士の、あの、(佐賀のはらくろ?)にありますように、武士道とは死ぬることだと見つけたり、という言葉がありましょう。
 ね、これは、もうやはり、武士道の真髄なんですよね。ええ。死を持ってと言うのですから。だから、金光様の御信心だってそうです、自分というものを空しゅうするということなんですから。ね。例えて言うなら、なら、幹三郎のことに、言うなら教会のことに、または御造営のことに、そこに命をかけられるというほどしの修行が出けるとするならです、ね、これは自分を空しゅうしとらなければ出来るこっじゃありません。ね。してみると、死ぬるということは、やはり武士道であり、忠義であるということ。
 ただ、そこは女の分に返り、ね、ひとめなければというところがございますように、いわゆる、泣き悲しむところですけれどもですよね。だから私はその、田中さんの例をとって申しましたが、田中さんがどうえしょうか、んなら、合楽の信心を頂かずに以前のままであったとすんならですね、とにかく、死ぬるを忠義と言うことをいつの世からの慣わしぞ、と言うて悲しまなければならない信心だと思いますね。ね。
 けれども、死ぬるということがです、その(ながまつだいも?)といったような、それが武士道である、それが信心だと、自分というものを空しゅうするということは、これが忠義であり、これが信心だ、これが神様へのいわば忠義一途の信心だということがですね、分かる。
 だから、そこんところに迷いが全然起こらないわけですよ。今日、今朝頂いたのは、そんなことじゃなかろうかと、こう思うんですよね。うん。いつ、その、死ぬるということが忠義ということ、いつの世からの慣わしか、と。さすがは女の(ぐん?)に返ることなくですね、私どもは真の信心をさせて頂く者が、いわゆる信心のない者の心になってしまうようなことなくです、どこまでも信心を頂いておる、しかも合楽の信心、頂いておる信心はこのような信心だということをですね、頂き抜いて行けれる、言うならおかげを頂いて頂きたいと思いますね。どうぞ。政岡忠義の段。はっはは、おかげを頂きますように、はい。